Kozuのライフログ

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プラトンの洞窟の囚人

itoさんのplogの視覚=死角?にインスパイアされて思ったことを書きます。itoさんは、こんなことを書かれています。
自分が目にしているモノ以外にもいろいろなモノ・事の存在を「素直に感じる」のは、結構難しい事なのかも知れない。但し、それが可能になった時、そこに豊かな"感性"が得られるのだろう。
「目にしているモノ」と言えるのは、視覚を持っている人に限られるのですが、視覚を持っている人は、哲学で有名な例え「プラトンの洞窟」における囚人なのかなあと思ったわけです。つまり、洞窟の中の囚人である私たちは、影を見ることが出来て、それが現実だと思っている。だけど、実は洞窟の外を見てみると、いろんな現実がある。ただ、洞窟の中の影を見て安心して現実だと思っているから、洞窟の外は見ようと思わない。洞窟の外を見たとき(目にしているモノ以外のモノ・事の存在を感じようとしたとき)、虚構だと思うか、現実だと思うかは、個々人次第なのかな。ただ、影だけをみているよりは確実に進歩していると思う。 ちょっと固い記事になっちゃったんで、最後にチョットしたことを書きます。中学生のころ、昼寝をしていたら、誰かが雨戸を閉め切ったことがありました。自分自身は、昼間だと思っていたのですが、目を覚ましたら真っ暗。あせりましたねぇ。本当に光が全くないと感じたんです。まず何が怖かったかと言うと、方向感覚がゼロになったこと。それから、起き上がって立ったのですが、自分自身は立っているんだけど、立っていることに自信を持てない(本当に立っているんだろうかとすごく不安になる)。あの感覚は忘れられません。しばらくしてきたら、光がやっと見えかけてきたので、出口にたどり着いたのですが(そんな広い部屋ではないですよ。)、もう少し同じ場所にいたら、別のものを感じ取ることが出来たのかもしれないなあ。そう、まさにitoさんが書かれた以下の気配のようなものをね。
また、以前紹介した"古建築の合理性"で記述した知人達が、長野県飯山近くの民家に泊り込み、宿泊体験をしたときの事だが、都会で体験できない"闇夜"となった時、言い知れない何か、気配の様なものを感じたそうだ。